
エッセイ「音の透き間」村松美賀子 (文筆家・編集者) 2025
音の透き間
春になると、法然院では椿の花が咲く。参道には藪椿の高木が茂り、伽藍に入るとあでやかな三銘椿の中庭もある。大きな手水鉢の口には一輪の椿があしらわれ、ときには紅、白、ピンクとさまざまな椿の花でその水面が埋めつくされる。
藪椿のあいだから漏れさす光を眺めていたら、ぼと、と音にならない音がした。紅い椿の花が足下に落ちてきたのだった。
生駒祐子さんと清水恒輔さんの音楽を初めて聴いたのは、四半世紀ほど前になる。演奏会も行う小ぶりな屋内の空間で、楽器を奏でるふたりのすぐ前に座った。
濃密だった。アコーディオンの赤い蛇腹が生きもののようにうごめき、コントラバスが大胆に、優しく鳴る。鮮烈な視覚と、リズムと旋律が織りなすドラマティックな音が相まって、息をのむ。
そののち、さまざまな場所で、ふたりは演奏を重ねてきた。作品の数は決して多くはない。むしろ、かなりの寡作だろう。それらをていねいに編みなおし、流れをつくり、物語をつくる。ひとつ、ひとつの作品を深めながら、そのつど、異なる世界を生みだしてきた。
そのことをあらためて意識したのは、ふたりが年にいちど、法然院で演奏するようになってからかもしれない。
法然院では、貫主の梶田真章さんが法話を行う。お彼岸や年の瀬、新春など、節目のときはもちろんのこと、そうでなくても時間をつくって話をされる。そのさい、同じ話ですが、と前置きされることもある。不思議なことに、たとえ聞きおぼえのある内容であっても、きくたびに心があらたまる。言葉ひとつがまったく違うように響くことも、ああそうなのか、と腑に落ちることもある。あたりまえだが、同じようであっても、同じではない。
その「あたりまえ」は、mama!milkの演奏会にも通じている。同じ季節に、同じ曲をきくことで呼びさまされる感覚がたしかにある。自分の内にしまいこんだ時間をひらき、円を描きなおすような。
そもそも、わたしたちは耳を澄ませているようで、ききたいことしかきいていない。目を見ひらいて脳裏に焼きつけたとしても、みたものの記憶はしだいに薄れ、にじんでゆく。こんなにも忘れたくないと思っていても、忘れている。
わたしたちの知覚と記憶はいつも頼りなく、ゆらいでいる。感じられることも、憶えていられることもほんのわずかだ。夕暮れのうつろいのなかで、来し方をたぐりよせながら、今、ここにつなぐこと。それはくりかえしのようでいて、いつも新しい。
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ふたりの演奏の変化も、もちろんある。こと法然院においては、生駒さんと清水さんは限りなく透明に近い。楽器の声は、生きものたちをふるわせ、空気をふるわせる。さまざまなゆらぎが響き合い、誰のものでもない音楽が生まれでる。
ふたりがつくっているのは、音の透き間なのかもしれない。それはやわらかくのびちぢみしながら、あらゆる音を受けいれ、行き来させる。はるか遠くの、ギリシャの海の呼吸に、鳥葬のあったイランの山に吹き渡る風。地中の奥底深く、太古の水のしたたりまでも運んでくる。みえていなくても、きこえていなくても、音はめぐる。いきいきと、息づいている。
他の存在と境界を持つわたしのいのちなど、どこにも存在しないのです。
梶田さんは、いつも言う。
ふたりが連れてくる音楽も、人の想像をはるかに越えたかかわりあいの、定まらない何かなのだ。どんなものであるのかまったくわからないけれど、それはきっと、刻一刻と移り変わりながら、瞬いている。どこかの時空の青い夜や、まばゆい朝のように。
村松美賀子 (文筆家・編集者)
mama!milk「初夏の演奏会」
2025年4月24日(土) [京都] 法然院
More Info ▶︎ [[ SCHEDULE ]] 2025年5月24日(土) [京都] 初夏の演奏会 Concert at Honen-in temple, Kyoto