[ ライナーノーツ ] mama!milk / Charade

洗練の極地をいく濃密なアンサンブルが誘う、甘美で幻想的なサウンドトリップ。

文:清水久靖 (Record Shop Reconquista)

1.
mama!milkの音楽は不思議だ。ジャズでありながらジャズではない。クラッシックでありながらクラッシックではない。タンゴでありながらタンゴではない。そして、その逆もまたしかり。延々とトートロジーを否定していく。簡単にいうとジャンルで割り切ることの出来ない音楽だということだが、このことはジャンルを否定するような単純な話でもないだろう。戦後詩壇において優れた自由詩を残した田村隆一が金子兜太との対談で詩の本質を定型に求めた話がある。反定型とは定型があるから生まれる概念であるということ。つまり、反定型はありえても、非定形という概念は詩においては存在しないということだった。定型をジャンルに、詩を音楽に置き換えて、この話をmama!milkに適応させるのなら少し雑な書き方になるが、ジャンルを内在化させることでジャンルからも自由になるというイメージだろうか。本作『Charade』を聴くと、定型と反定型、引力と斥力が均衡していくことで、軋轢とも調和ともとれるような一筋縄ではいかない状態に支えられたmama!milkの姿が、これまでのどの作品よりも鮮やかに見えてくる。軋轢と調和。相反する2つの言葉が1つの美しいアンサンブルへと結実していく様子に耳を傾けながら、私は「優れた芸術はその成り立ちにおいて幾重にも矛盾を抱えている」という、どこかで聞いた誰かの言葉をふと思い出した。

 

2.
生駒祐子(アコーディオン)と清水恒輔(コントラバス)によるmama!milkは1999年のファースト・アルバム『abundant abandon』発表以降、『Lumb and Mutton』、『Gala de Caras』と、ジャズやクラッシック、タンゴ、サントラなどを混在させた作品で多くの支持を集めてきた。もちろんジャンルの越境者として人気を博したわけではなく、官能と感傷が息づく詩的なメロディとアンサンブルにおける造形美がその評価の本質だろう。アストル・ピアソラやニーノ・ロータ、トム・ウェイツ等々、音楽の記憶を大事にする偉大な先人アーティスト達を引き合いに語られながらも、過去の音楽的遺産の反復に留まらない独自性を、同時代性を帯びた感性で表現してきたということも、とても重要な点だ。あまり語られてこなかった気もするが、個人的にはクラシックを音響的に捉えたポスト・クラシカルと呼ばれたムーヴメントや、1920年代から50年代、いわゆるロック以前の音楽や、アジア、アフリカ、東欧、中南米の音楽の歴史を呼び起こした“ミシシッピレコード”や“サブライム・フリークエンシーズ”といったレーベルが提示した一連の作品群と、しっかりと距離を取りながらも実は共振していたとも思っている。時代や地域を越えた様々な音楽をオルタナティブな視点で捉え直すことで生まれるダイナミズムを独自の感覚で体現していくことで、多くの音楽ファンから熱烈な支持を受けてきたともいえるだろう。そして、その独自性がより鮮明な形で現れたのは恐らく4枚目『Fragrance Of Notes』からではないだろうか。(この作品はイギリス国営放送BBC Radio1の“Gilles Peterson’s Worldwide Award”にて“Jazz Album of the Year 2009”を受賞したことも、同時代性を裏付けるエピソードとして付け加えておきたい。)サウンド・ヴィジョンが明確になったことで、アンサンブルが洗練されて音の響きの質に変化が生まれ始めた。この頃を境に、mama!milkはモダンな感性で古き良き音楽を捉えなおすオルタナティブな存在としてだけではなく、響きの探求者としての側面を見せるようになった気がしている。

 

3.
『Fragrance Of Notes』以降も、『Parade』はクラッシックのホールコンサートも行われる長野県の茅野市民会館で、『Quietude』は浜辺の廃墟で、『Nude』はギャラリー、『Duologue』は1916年築の旧銀行をリノベーションした京都のflowing karasumaで録音を重ね、場所と編成を多様に組み合わせながら、豊潤な響きを捉えた見事なアンサンブルを披露していく。『Quietude』における環境音と器楽音が重なり震えてく様子はアンビエントのようであり、『Nude』ではコントラバスが音響そのものをスウィングさせているような揺らぎを与え、『Duologue』においては息遣いと響きがグルーヴへと転化する。演奏者と場所が互いの魅力を引き出し合っているような関係にあることを如実に物語るディスコグラフィを築いてきたともいえるだろう。メンバーのポーリン・オリヴェロスがアコーディオン奏者であるということにも引きずられているのかもしれないがmama!milkの作品やライブに触れる度に、洞窟や大聖堂で演奏をしたDeep Listening Bandの存在が私の頭を掠めていく。そして、武満徹が作曲について「無から有を形づくるというよりは、むしろ、既に世界に偏在する歌や、声にならない呟きを聴き出す行為」と語ったことを反芻する。場が語りかける声に耳を傾け、そして演奏者が音へと昇華させる。mama!milkは場から何を聴き、どう演奏するのか。そして、私たちはその響きに何を聴き、何を視るのか。

 

4.
『Charade』の録音作業は2019年から始まるが、その始まりは2016年まで遡る。KAAT神奈川芸術劇場で行われた塩田千春展「鍵のかかった部屋」にて、コントラバス奏者 守屋拓之を迎えてトリオ編成で(この編成で『L’accordo Contrabbando』を2017年に発表)、そして、2017年には彫刻家 前川秀樹の展覧会 「月の居ぬ間に」でmama!milkの2人による演奏を行う。この2つの公演で本作『Charade』収録の幾つかの楽曲の原型が生まれ、2018年から林正樹や曽我大穂を迎えてアルバム制作へ向けてのセッションを開始する。2019年には、山梨のスタジオで波多野敦子と、翌年2020年3月には、2019年作となったデュオ・アルバム『your voice』の制作を通してメインエンジニアに決まった浜田純伸と原美術館にて、小倉笑、Bun Imai、市原大資、守屋拓之、林正樹といったメンバーで録音を敢行。そのすぐ後、covid-19の影響で全てのスケジュールが一旦白紙となるが、配信ライブとリモート録音へと切り替えて活動を続けていく。リモート録音ではミラノ在住のGak Sato、井登友一と「sotto voce」を、それから盛岡在住のふじおかやすこ、鹿児島在住の有村航平、そして金沢での配信ライブで共演した木太聡が参加する形で7インチ用の「your voice」が完成。この「your voice」をカップリング曲に携え、「Veludo」の7インチが2020年10月に発売される。それから、法然院、京都文化博物館でのライブの準備過程で杉原圭子も録音メンバーに名を連ねることになる。平行して、大阪のNOISONといったプライヴェートなギャラリーでも曽我大穂とも録音作業を続けていく。更には、京都文化博物館、閉館の決まった原美術館(東京)でのライブを通じて作品へのイメージを固めつつ、広島で初共演を果たした加藤和也との演奏も録音された。その後、京都市交響楽団やオオルタイチとの共演、映像作品の制作や金沢でのライブ、沖縄での2つのコンサートを挟み、2021年8月に遂に録音作業が終了を迎える。ざっとメモのように『Charade』の制作を振り返ってきたが、mama!milkの活動スタンスが何となく分かるのではないだろうか。2人の音楽活動自体が大きな意味での旅のようで、場所と人との出会いの中から音楽自体が育まれている。そういえば、本作はイスタンブール、グラナダ、タンジェ、カサブランカ、ジョドプル、アーメダバード、タリン、マテーラ、アテネ、マラッカ、サマルカンドへの旅からも多大なインスピレーションを受けているとのことだった。かつて “Japanese New Exotica”とも評されていたこともあるが、旅というのはmama!milkにおけるキー・ワードの1つなのかもしれない。

 

5.
収録曲の中で1番最初に聴いた楽曲は「Amber」だった。重たくうねるスモーキーなコントラバスと、音像に帯を巻くように蠢く二胡、しなやに浮遊するピアノに、優雅と猥雑を極めるアコーディオン、聴き手の意識を覚醒させるフルート、そして、民族音楽的にも聴こえる金物系のパーカッションが一体となったそのサウンドには、ただただ圧倒されるばかりだ。部分で聴けば前衛音楽のような佇まいをも感じるこの楽曲から沸き立つこの情感は一体どこからやってくるのだろうか。響きと旋律だけではなく、演奏者の気配までも巻き込んだ音響空間から発露されていく臨場感もまた物凄い。そして何よりもmama!milkの音楽的エッセンスを凝縮させたような濃厚な音塊が眼前に現れたような驚きを感じた。それから、コロナ禍の状況を逆手にとってリモートによる録音で完成させた「sotto voce」も印象深い。この曲は通信環境で生じる遅延によるズレを活かせるように作曲したとのことだが、テルミンの音の震えが気品にみちた物悲しい祈りのように響き、私はなぜかアルメニアのドゥドゥク奏者、ジヴァン・ガスパリアンのことを思い出した。恐らく慈愛のような音の佇まいがそうさせたのだろう。確かに、この曲もジヴァン・ガスパリアンと同じようにアジアとヨーロッパが入り混じった香りがする。そして、胸を締め付けるような切ないメロディが印象的なタイトル曲「Charade」は別々の編成で録音された4つのバージョンが収録されている。それぞれの装いで展開されていくわけだが、ノスタルジーやリリシズムにもヴァリエーションがあることを思い知らされる程にどれも名演だ。更には、「Tango al Fine」の3つのバージョンにも唸らせられる。楽器の特性によるところもあるが、ハープをフィーチャーしたバージョンはウーゴ・ディアスを、口笛をフィーチャーした“Alcazar”ではガウチョのいる風景を想起した。そして、サックスをフィーチャーした“Sombra”では哀愁が官能へと転化していくような印象か。サックスでフラメンコを演奏したというキューバ人音楽家Negro Aquilinoのことも何となく思い出す。その他、サンバやショーロで使われるブラジルの弦楽器“カヴァキーニョ”の響きと旋律がモダンなエキゾチシズムを醸し出す「Azul」、ヴィオラとアコーディオンの掛け合いがあまりにも優雅な「Camelia」、小倉笑の声をフィーチャーした「Ephemera」、密林ジャズのような「Moment to Moment」、二胡が中国~中央アジア的な叙情性を滲ませる「Peonia」、ミニマル/ドローン的ともいえる水平的な美しさが印象的な「Sanctuary」、途中アブストラクトな展開を挟みつつも重層的な響きを持つ「Veludo」等、曲想や音楽的な語彙に違いはあるが、収録曲はどれも、私が最初に聴いた「Amber」の興奮を持続/増幅させるような楽曲ばかりだ。

 

6.
それにしても、本作における音と音の兼ね合いの妙、響きの目映さ、官能と郷愁、優雅な叙情性が際立つ旋律の美しさは異常だ。音が震え、空間が揺らぎ、遠く近く残響が浮遊する。多くの人は、これまでのmama!milkの流れを感じつつも明らかに別の次元へと到達したような印象を受けるのではないだろうか。例えば、ピアソラ楽団のメンバーでもあったアルゼンチンのピアニスト、ヘラルド・ガンディーニのピアノ作品を聴くと、タンゴを超越したところで音楽としての1つの有り様を考えさせられる。それは彼の作品がタンゴのみならず現代音楽のようだとか、ジャズ的でもあるとかそういったことが理由ではない。“場”があり、“演奏者”がいて、“音楽”になる。といった、音楽におけるある種の必然性を引き寄せる力強さを感じさせるのだ。同じように、『Charade』における多くのアンサンブルは必然性の連続だ。もっとも、mama!milkの場合は、“場”を見つけ、“演奏者”と出会い、“音楽”が生まれる。と書いた方が、しっくりとくるかもしれない。音楽に魔法が宿るというのは、あまりに使い古された言葉だが、そう思わずにはいられない何かが本作には確実にある。

 

7.
私は『Charade』以前以後で音楽の聴こえ方が少し変わった気さえしている。エドワード・ヤンの映画やロベルト・ボラーニョの小説、ジョセフ・クーデルカの写真を体験した後に、世界がまるで違って見えた時のことを思い出しながら。自分の中に何か新しい種が蒔かれたような生々しい感触がずっと残っている。


 

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